2006年08月23日

第157回 「個人の責任を追求する前に」

8月22日(火曜日)の朝日新聞ホームページに、「 指導力不足で退職の教員、10年間で121人 京都市」という記事が掲載されていました。詳細は、

 「http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200608220121.html

をご参照下さい。

さて、この記事の中で、京都市教職員組合の方のコメントが掲載されており、インタビュー全体が掲載されていず、どのような脈絡で述べているかわからないため「すべて個人の責任にして解決すべき問題ではない」という部分には賛成します。

その理由は・・・

そもそも教員免許をはじめとする医師免許、弁護士免許、公認会計士免許に代表される免許いわゆる国家資格がなぜ導入されたかを考えてみましょう。

その理由は、教員にしろ、医者にしろ、弁護士にしろ、その人が本当に教えたり、治療したり、弁護したりする能力があるのかないのかは、専門家でない人にとっては分からないわけです(これを「情報の非対称性」といいます)。

そこで、その人が、教える能力、治療する能力、弁護する能力測定を、市場に委ねてもいいのですが、「市場よりも国家保証の方が良いのでは」ということで国家が市場に代わって資格を与えている分けです。

そうなると、「指導力不足」の人になぜ国家資格である教員免許状が与えられたのか、というシステム上の課題が浮上してきます。

教員免許状は、国家資格であっても医師免許、弁護士資格、公認会計士資格と異なるのは、国家試験に合格した人に与えられるのではなく、大学で必要な教職課程を修了した人に与えられるわけですから、厳密に言えば、そのような人に単位を与えた大学に責任があるとうことになるのかもしれません。

最近の例では、「姉歯元一級建築士の耐震強度偽装事件」も、はじめは国や地方自治体が耐震強度を測定していましたが、民間企業でも十分に安心して、任せられるというので民間企業も耐震強度の認定を行ったのが間接的には裏目に出たのと類似している点があります。

つまり、大学や民間の認可機関に「他人任せ」、「形式主義」という意味では共通しています。

今一度、なぜ資格制度が設けられているのかを検証しないと、同じような事柄が起こるでしょう。


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Posted by 宮平栄治 at 00:20│Comments(0)沖縄経済学
 
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